1983-05-19 第98回国会 衆議院 決算委員会 第6号
その四日後の十二月十二日に東條内閣の閣議決定が行われまして、「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰争と呼稱す、」そしてその理由は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争だからである、こういうように定義づけているわけですね。そうすると、これは当然、大東亜戦争というのは大東亜の新秩序を形成するための正しい戦争であった、そういう価値判断が入った言葉だというふうに私は思います。
その四日後の十二月十二日に東條内閣の閣議決定が行われまして、「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰争と呼稱す、」そしてその理由は、大東亜新秩序建設を目的とする戦争だからである、こういうように定義づけているわけですね。そうすると、これは当然、大東亜戦争というのは大東亜の新秩序を形成するための正しい戦争であった、そういう価値判断が入った言葉だというふうに私は思います。
先ず第一に、本措置の対象たる軍事公民の範囲でありますが、軍事公債の範囲は、支那事變國庫債券、支那事變特別國庫債券、大東亞戰争國庫債券、大東亞戰争特別國庫債券、これに限定することといたしました。その理由は、これらはすべて戦費調達のため發行した國債であり、且つその旨を名構に冠しているものでありまして、本措置を實施するについても、技術的に比較的容易であるからであります。
科學町の問題を御指摘になりましたが、私も、日本の鐵道が進歩いたしまして、正確なものであり、また非常に黒字を出しておつた、コストが安かつたということは、二十年あるいは十年前くらいまでは、そういう現状であつたと考えておりますが、支那事變が起りまして以來、戰時中に、この進歩というものが戰爭の結果などによりまして止まつておるように考えられております。
なおこの線を特にお願い申したいと思います事柄は、本路線は昭和三年すでに豫定線に編入せられておりまして、同十一年著工の運びになつておつたのでありましたが、支那事變が勃發いたしまして、引續き大東亞戰爭等のために、著手年度がだんだんと繰延べられまして、遂に今日に立ち至つているのであります。
それから第九點は、戰争中、支那事變勃發後から太平洋戰争のミズリー號上の調印に至りますまでの間の境界の變更、例えば特定の市にある隣接の町村を編入をいたしたというような場合でありますが、「そういう場合におきまして、ともするといろいろ強制を加えて編入したというような場合がありますし、又そうでないといたしましても、その隣接の町村に大きな工場ができた上はもう市と全く一心同體になるから、これを合併しよう、こういうようなことで
しかしてこの道路の開通なるや、宇和島自動車株式會社において、魚成、野村、愛治間の乘合自動車の運行を始めましたことにより、關係地方民も多年の宿望の達せられたことを歡喜していたのでありましたが、その喜びも束の間、ほどなく支那事變勃發し、遂に昭和十四年末より自動車の運行を廢止せられ、關係地方民は再び不便な交通に閉塞されるに至つたわけでありました。
この路線は廣田内閣の時代すなわち昭和十一年度にすでに一部の豫算計上をみたのでありましたが、支那事變の勃發と相なりまして、繰延べから中絶になりまして、今日に至つておるのでございます。
しかして本港利用度の向上をはかるには、陸上設備の完備と相まつて商工水産業の般賑をはかるほか方途なく、ただひたすらこの二點に努めたるも、時あたかも支那事變より今次大戰に誘發發展したため、この港灣施設を活用するに足る陸上設備及び本港を不可分の關係にある附近一帶の護岸工事など、ついに實施に至らなかつたのである。その後本漁港も歳月の經過とともに、破損はなはだしく、再修築の必要きわめて急なる實情である。
殊にこの金融の面につきましては、これは殊に支那事變以前、昭和の不景氣頃から、各都道府縣にあるところの銀行は、政府みずから合併を慫慂して、殆んど各都道府縣一銀行にするように慫慂して來ておつて、戰時中も尚且つそれが續いたのであろうと思います。殊に獨占禁止法なり、集中排除法案を見ますと、競爭させることのみを目的としておるのです。
五ヶ瀬川の計畫流量は毎秒四千六百立方メートルでありますが、支那事變以來山林の濫伐等により、水源は荒廢しまして、昭和十八年の洪水量は約五千五百立方メートルに達するものと推定されております。
國鐵につきましては、昭和十二年の支那事變までは二十四萬人でやつておつた。その後走行距離も延長されていない今日、現在は六十萬人でも以前ほど能率があがつていないのは御存じの通りであります。
しかし九年、十年、十一年は支那事變直前で、日本の經濟がやや安定しておつた、こう言われておる。また當時は米が下ろうということになれば、政府が無條件で買うという資金をもつておつたのだから、米は極端に下らなかつた。
ところが、支那事變その他のことで、これが中止になりましてので、約三百戸から入植いたして農耕地も約一千町歩以上あつたものが、水のないために續續とその土地を離れていく者が多くなつたのであります。從つて今日ではわずかに百六十戸ばかりしか殘つていないというような現状でありますので、再三拓植費の要請をいたしておるのでありますが、拓植費に對する豫算の關係上、これが實現に至らず今日に至つておるのであります。
九年、十年、十一年をなぜ見たかと申しますると、支那事變のちようど以前でありまして、比較的日本の經濟が安定しておるときであり、又同時にこの時代におきましては、米穀統制法というものが大體施行せられまして、米價が極端に下がる場合においては、政府が無制限買上げを行うことによつて米の値段を維持し得る、こういう趣意の、いわゆる米に關するところの或る程度の基準米價というものが、經濟上安定しておるというような理論の
從つてこの點から考えてみまするときに、われわれはどうしても少くとも支那事變から大東惡戰爭終了までの農業會の舊役員は、この新しき農業協同組合の役員となることはできないという條文を、はつきりとこの中に織りこんでこそ、農村の末端の農業會の役員がその氣持をなげてしまうのであります。これはおもしろい問題であります。
と申しますのは、抽象的に農業會の役員、こういうことは非常に廣汎なるものでありまして、こういうことを法律に明記した場合に、かえつてどの人が農業會の、殊に戰時中——支那事變以來の戰時中ということになり、非常に長いのでありますが、こういう複雑なることを、しかも法律の中に明記するという場合から起る複雑性、そのためにかえつて次の協同組合を設立する上において何かの不便を生ずる、かように考えますので、この點は挿入
○平野國務大臣 それは戰時中——支那事變から大東惡戰争終了までということであつてわかつております。しかし私の言うのは、その戰時中の農業會の役員という言葉は、非常に廣範圍なものであつて、中には農民組合のものも農民組合のものも農業會の役員たるものが多いのであつて、これらを佐竹君の御所論の通り法案を修正されるならば、むしろ自縄自縛になるのではないか。
ところが間もなく支那事變に遭遇いたしまするや、豫算が縮減されまして、その少額の工費も富山市周邊の重要軍需工場防護のために左岸の一局部に集中されるやうな次第でありますので、危險箇所の修復等はようやく彌縫的工事に終つたような次第でございます。起工以來十二箇年も經ておるのでありまするが本工事は遅々として進まないような状態でございます。
今次支那事變より大戰への間におきましては、官僚統制の強化に伴う自治の後退を目的とする昭和十八年の地方制は改正が行われ、その際率然として官治東京都制のもとに、東京府に東京市を吸収し東京市を解體することによつて、思ひもかけぬ形で大都市制度が實現せられたのであります。
尚又最後の年を十一年に取つてありますが、御承知のように十二・十三年となりますると、支那事變等の影響が、だんだん戰爭經濟の影響ができて參りまして、いわゆる人爲的な價格がいろいろ織り込まれておるということが考えられるのでありまして、從いまして丁度その間にある九・十・十一年は農産物の價格を決定いたしまする基準といたしましては、今のところ一應妥當な年度であるというふうに考えておる次第でありますが、併しこれも
昭和十一年は御承知の通り支那事變以前であります。日本の國家の情勢は、今日とまつたく違つた状態にある。そういうときに決定されたところの、すなわち死文化しているような閣令を基準にして、もつて政府の權威ある決定を無視する。こういう實情が現われておるわけであります。